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理不尽とは 1  12/29セッション振返り

2016/01/06
ACにとっての理不尽とは何か

セッションメンバーそれぞれが感じる理不尽は

・親に見てもらえなかったこと
・自分の意思より母親の思いを優先せざるをえなかったこと
・自分のことを見る状況を奪われたこと
・洗脳されたこと
・母親に愛されないで道具にされたこと
・私は悪くないということ



ACにとっての理不尽は
日常生活の中に当たり前に存在しているから
自分では理不尽とは感じられない。

自分が受けた理不尽がわからないから
理不尽を受けても、理不尽と感じない。
自分の家庭では理不尽が当たり前だったから
それが普通だと思っている。

理不尽が当たり前という元々が間違っている。
当たり前になっていれば、理不尽に気がつくのは難しい。


今思えば、理不尽だった
子どもの頃は全然気づいていなかったと
言えるかどうか。

今思えば、、、と言えるのは、今は、当時、理不尽だったとわかって、
理不尽だったと言えるようになっているから。
理不尽がわからなければ、今思えば、、、なんて言えない。

理不尽だったと言えるようになったのか
言えないままなのか
その違いを感じられるのは人それぞれ。

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7月9日GS振返り

2015/07/12
無感覚・感覚のマヒ

苦しかったことのガス抜き、吐き出しをしない
愚痴を言わないことで、違和感、一般人との違いがつかめない
自分が苦しいと思わないシステムの根本
無感覚なので、嫌とか辛いとかを言う部分が欠けている
口に出さないことの連続で麻痺させるしかなかった
口に出す訓練がされていない
口には出さなくても残り続け、バランスをとっている
   → 監視や、自由にやっている人に制限をかけたいという欲求
       私が不快なのを悟れよ
       子どもへの干渉・旦那のぐち

麻痺している状態から感覚を取り戻さなければいけない
感覚がありますか~と叩いて、痛いですか~と確かめる
叩いても叩いても痛みがわからない
触られているのか、触られていないのか、わからない状態でコミュニケーションをとっている
自分が痛みをわからない、子どもの痛みも分からない状態
手探りでコミュニケーションをとっていて、ずっとすれ違っている状態

自分が無意識で我慢していることを出していかなければ終わらない

終わらせるには、言えるようになること

無意識を明確にしていくこと

セッションで充電したい
    →自分の知られていないものに気づいてもらえる満足感で充電
自分で充電できるようにしていく
    →自分で気づくことは充実感があって消えない

ACの喜び・・・我慢し続けた見返りで喜びを得ているのではないか
         だから苦労しなければ喜びを得られない、これが歪み

喜びは我慢しなくても手に入る



17:50 セッション | コメント(0) | トラックバック(0)

6月27日GS振返り

2015/06/30
自分の内面の揉め事をどう処理していくのかを言葉にしていかないと、
対処法を固定できない

無意識を明確にするとは、今起きていること一つ一つをはっきりさせながら、
大元はどこにつながるのかさかのぼることができること


<ポテサラミッション>
見た目の好み
どの食感が好みなのか
自分の好みがわからなければ、子どもに自分の好みを押し付けていることも
わからない


<向上と回復はセット>
セッションを受けて向上していても、自分の不幸感が強いと、
向上している感覚を感じられなくて満足がわからない
喪失感、欠損している自分を感じて、向上したものが薄らんでいく


<やってもらって当たり前の感覚>
子どもの頃、誰も助けてくれない状態があって、その状態に嫌悪感を持った
 ↓
同じ状態が起きたとき、その嫌悪感から、助けるのが当たり前という感覚になる
 ↓
助けてもらう立場になった時も、やってもらって当たり前の感覚になってしまう


<全部拒否しているのがAC>
諭されるのも嫌
自分が決められないのに、決められるのも嫌
感じる順番
 なんとなく嫌な感じ
  ↓
 お説教が嫌
  ↓
 諭されるのが嫌
  ↓
 昔、そんなことを言われたことがあって身動きが取れなくなったから嫌い
  ↓
 すべてが繋がっていく

満足の高さ・・・邪念なく相手を見て、相手も一致してくるとき


<楽しいことも嫌なことも忘れる>
我慢することが当たり前の感覚だから、楽しいこともきついことも
我慢するのが当たり前になっている
人の粗相も憶えていない、逆に楽しいことも憶えていない


<笑うにも力がいる>
興味を多方面に持てる力量が必要
制限が多すぎて心から笑えない

自分はゆっくり出来ないから、ゆっくりできない状態を作りたい
それで、旦那がテレビのチャンネルを変えるからゆっくり見られないと
旦那のせいにする

純粋に笑っているシーンでフラバ
モニタリングなどの番組で、人があたふたするのは滑稽で面白いものでも、
子どもの頃から親にそれをやられ続けてきた人間にとっては、ハラハラの連続
親から何度びっくりさせられてきたか
そして次に日には何もなかったことになっている
そこでびっくりした自分が滑稽、それを見ることへの抵抗感

子どもはモニタリングを見て面白いと思っても、自分はハラハラに気を取られ
面白いと思う子どもの感覚とずれている
子どもは、なんてひどい人なんだと思うことでしか母親と共有できない
子どもは自分が面白いと思って大笑いしたら、
人をだますなんてひどいと思っている母親とずれるから、笑えない
だまされる人の滑稽さにハラハラしている感覚が、子どもの感情解放の邪魔をしている


<すべては仕組まれたこと>
親がしたことが、被害者的感情を誰かにわかってもらいたいという無意識の感情でも、
それが意図的であれば子どもはいつか気付く
親も仕組んでいたし、自分も仕組んでいるとわかること
今の自分の状態は、偶然では起こりえないことを知る事が必要
でもそれを知りたくないというのがハードルを上げているし、
同じことを自分が娘にしているから、気付きたくないという歯止めになっている

自分は、まわりくどいことをやらないこと



自己評価が低くても、支える人間がいれば変わっていける



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14.8.21 縦割りセッション 振り返り

2014/08/23
子どもの頃感じた恐怖感と、今感じる恐怖感が変わっていない
その時の気持ちと今の感覚をつなげないと、怯えから解放されない
子どもたちもその呪縛に巻き込まれている

子どもの言動に動じないのが子どもにとっての安全基地
子どもが揺さぶってくるのは、本当の不満を見つけてほしいから

子どもが何かをしたときに、できたことだけでなくどこが苦しかったのか、
そのプロセスをきっちり意識させることが現実を生きること

自分が苦しんでいるところは、自分と人は違うということ
これが不快だった、これが快だったと言えない状態は、
過保護・過干渉も虐待も一緒
自分の快、不快を言えない場所を作ることが問題
ACは快、不快を言わないことが当たり前になっている
言えない人が大人になって子どもを育てている
危機感だけが羅針盤
どうやって生き延びていくかということだけが指針になって、
身の危険と感じることは子どもにやらせてはいけないというところから
過保護過干渉が生まれる
それを自分がどういうふうに子どもにやってきたのかが分からないと、
また同じことをやってしまう。

プロセスを忘れ、なかったことにしているうちは
子どもや人を巻き込んでいくシステムは消えない
消すためには何をやっていったらいいか

快と不快をわける

自分の不幸のシステムによって記憶が無くなっていく
今話していることをないがしろにして、常に過去にいて、
誰の話も聞けない状態になる
その状態が最悪

プロセスを憶えていられる人だけが罪悪感を持つ
憶えていられる人間だけが人に思いやりのある人間になれる
思いやりが伝わって子どもが変わっていく

表の配列 自分の不幸
裏の配列 我慢を繰り返してきたもの
     自分でロックをかけて楽しい記憶を入れないようにしている

何のために分けるのか
  好きと嫌いを同じ重さにすること
  好きと言っても嫌いと言っても負荷がかからない状態になるため

好きな食べ物と安全な食べ物は違う
食べ続けることでわかる

子どもなら親を許すという決意がなければ近くにはいれない

親を守っている感覚(麻痺している状態)
  ↓
麻痺を元に戻して、悔しい、悲しいを感じる
  ↓
この時点で親を許せるのか考える

子どもがいつか怒りを持つ時
自分がこのプロセスをみれる人間になっていないと
子どもは荒れていく

生まれつきではないのに、生まれつき障害があったように育てられ
手がない足がないのに、その障害が感じられないのがAC

当たり前の人間が当たり前にする抵抗もしないで、
自分で収めてしまうのがおかしい
子どもも同じ
当たり前の事が当たり前に言ということができない人間を
作ってしまった自分の罪

自分が本当に何が好きなのか
味覚的な違和感さえ越えられなければ先に進むことができない
体裁だけで終わるのか、本当に見つけようとするのか、大きく違う
あなここをやめない理由は本当のことを見つけてほしい
子どもにもそれをやってやる
その前に自分の気持ちを確かめる
嘘が入ってくるからやっかい

疑心
いったん信じたものを、求めていく方向性と、疑っていく方向性に分かれていく

卵焼き
家族が食らいつく卵焼きを作る
作る前に卵焼きをいろんな種類買ってみて、
自分の好みを決めてから作ってみる

家庭は、良い兆しがなければどんどん悪くなる
どれくらいの人に興味がもてるのか
もてなければ、ずっと子どもの苦しみは続く
どれくらいの人とキャッチボールができるのかが力量
人を求める気持ちのない人を変えることはできない




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自分の不遇にうっとり

2013/12/22
2週間前に、旦那が酔って転んで、右肩を脱臼骨折しました。

一緒に飲んでいた人に家まで送ってきてもらった時は、旦那は泥酔していて
ひとりで立つこともできずに、右肩が痛いと言っても一人で座っていることもできなくて、救急車を呼びました。

救急車が来るまでの間、私の頭の中は

保険証は持ったか
このまま入院になるかもしれないから、私は自分の車で行かなければ着替えを取りに戻るのが大変だ
明日の出張は誰か代わりに行ってもらわくてはいけない。

そんなことがぐるぐる回っていました。

旦那のことが心配とか
旦那が怪我して不安だとか
そういう思いは全然浮かばず、
病院について、りんりんさんにびっくりした~とメールをした時に
ああ、私びっくりしてたんだと気がついたくらい、自分の感情を感じていませんでした。

自分がどう動くか
それだけに意識が集中していました。

パニックになった時、こうして感情を感じないようにしているパターンは、子供の頃からやっていました。

旦那は幸いなことに、脱臼を整復したときに骨折箇所もうまい具合に収まるべきところに収まって、入院せずに家に帰ってきました。

それから2週間
旦那が右肩が不自由で、それまで手伝ってくれた家事も頼めなくなったし、お風呂も一人では入れないので一緒に入ったりして、自分の時間がなくなったと感じていました。

それまでは、お風呂はスマホでテレビを見たりブログを読んだりする時間だったので、貴重な時間がなくなくなった感覚でした。

セッションでその時間がない感覚は誰のせいだと思っているのかと問われたのですが、自分は頑張っていると思っているので、誰かのせいにしていると思ってはいるものの、旦那のせいにしているのか、娘のせいにしているのか、母親のせいにしているのか、はっきり答えることができませんでした。


こうやってはっきり原因を特定することを避けて、自分の不遇にうっとりすることで、憎しみと向きあわない

うっとりを正当化するために、自分が我慢して一生懸命やっていることが、子どもにとってどれほどの重荷になっているのか

きんたろうさんから聞いたことを思い出しながら書いてみて、全部を理解するのはまだ難しいけれど、うっとりしている自分がやっと見えてきました。


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